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 現在、全国でトップクラスの医薬品生産金額を記録する富山県で、その基礎ができたのは江戸時代中期の頃です。富山の売薬行商人が全国の家々に薬を預けて、次回訪問時に使用した分だけ代金を頂戴する「富山売薬」が、地域を支える一大産業に発展します。その中心である富山の城下町は、明治初頭に全国で第5位の人口を数える日本屈指の都市に成長。「富山売薬」は当地の独自文化や考え方、周辺産業などを発展させました。

富山藩のピンチを救った富山の薬

 富山で製薬と薬の行商が盛んになったのは、第2代富山藩主・前田正甫(まえだ まさとし)の時代です。富山藩は加賀100万石で知られる加賀藩(石川県・福井県、富山県の一部)から分家した支藩で、現在の富山県の中央部、神通川流域の南北に長い10万石が領地でした。当時の神通川は急流で水害が生じやすく、富山藩は農業生産力の向上と安定が課題で、前田正甫は新田開発や治水工事に力を注ぎました。さらに、本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために、いくつもの産業を奨励します。その一つが売薬でした。

第2代富山藩主 前田正甫
富山売薬を支えた北前船

 富山藩が売薬に力を入れた要因はいくつかあります。富山城下に中世の終わり頃から薬種を扱う市があったこと。そしてもう一つは、神通川の河口で発達した北前船の港の存在です。海運を通じて多種多様な原料が入手できました。また、北前船は富山から薬を各地に運搬するのにも活躍しました。

写真:北前船廻船問屋 森屋
北前船は江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍。商品を預かって運送するだけではなく、港で船主自体が商品を売買することもありました。
江戸時代のプロモーション?「反魂丹」の伝説

 「富山売薬」でもっとも有名な薬は「反魂丹(はんごんたん)」です。前田正甫が参勤交代で江戸城に登城した際、城中で腹痛を起こした大名に反魂丹を与えたところたちまち回復。諸大名はその効能に驚き領内での販売を懇願したため、富山の売薬は全国に広がったと伝えられていますが、真相は定かではありません。反魂丹が富山藩に伝来したといわれる前田正甫の頃から、富山藩は売薬行商人の領外での活動を許可し、領内の薬店、薬種問屋、売薬業者の自主的な商売を奨励したと考えられています。

行商の時期
行商に出かけるのは春と秋の2回が標準でした。春は冬場の出稼ぎからの帰宅、秋は農作物の収穫があり、各家庭に現金があるためです。
製薬について
売薬行商人は薬種問屋から薬の原料を仕入れて、次の行商に出かける数か月の間に集中的に自宅で製薬していました。薬袋づくりは主に家内の女性が担っていたようです。
現代ビジネスにも通じる先用後利

 売薬行商人は柳行李を包んだ大きな風呂敷を背中に担いで全国を行商し、各地の庄屋を中心に家々を回りました。富山売薬の販売システムの基本理念は「先用後利(せんようこうり)」です。一説には医療の恩恵を広く寒村にも届けたいという前田正甫の訓示「用いるを先に利益を後に」からきていると言われます。先に品物を預けて使用してもらい、使った分の代金を次回の訪問時に回収して利益とする「先用後利」は、お互いの信頼関係を大切にした商売の哲学であり、現代ビジネスにも通じる考え方です。

柳行李
オマケも生んだ母なる富山売薬

 富山売薬は名所や役者芝居を描いた版画などを、お客さんへのお土産としました。これはオマケ商法の元祖と言われています。他にも富山売薬から生まれたものはあります。例えば、明治時代になると薬を入れるガラス瓶を製造する工場が富山で相次いで操業。多くのガラス職人が存在していた当地の歴史を踏まえ、1985年頃から「ガラスの街とやま」の取り組みがスタートしました。また、富山県の郷土料理・ます寿しで用いられる曲げわっぱも、元々は軟膏などを入れる容器として利用されていたものでした。富山売薬はたくさんの足跡を今の富山に残しています。

撮影:富山ガラス工房
現在の富山県内には100名以上のガラス作家がいるそうです。
撮影:庄右衛門元祖関野屋
丸い形がトレードマークのます寿し。
取材協力・参考:富山市売薬資料館  所在地/富山県富山市安養坊980