AGRIFUTURE_Vol.46
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昭和時代現代水を堰き止めていた八丁堤を切り、見沼溜井を干拓して「見沼田んぼ」は生まれました。そして、見沼溜井の代わりとなる農業用水の確保のため、見沼田んぼの西縁と東縁の台地に沿って開削した水路に、利根川から約60kmにわたって引いた用水を結合しました。これが後に埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水と並び日本三大農業用水の一つに数えられ、疎水百選にも選ばれている「見沼代用水」です。この工事に関わった作業者は延べ90万人ともいわれ、金2万両という巨費が投じされました。これだけの大工事にもかかわらず、工期は農閑期のわずか6か月という短さでした。干拓と開削工事により、干拓地では約1200ヘクタールの新田開発に成功し、見沼代用水は埼玉県東部の約300か村・15万石を潤しました。江戸時代から昭和初期まで水田として日本の食料事情を支えた見沼田んぼですが、戦後に高度経済成長を迎えると都市化の波が押し寄せ、一部で住宅や公共施設、道路などへの土地利用が進むようになりました。しかし、1958年に狩野川台風が関東地方を襲った際、見沼田んぼが自然の貯水池となり水を受け止め下流の被害を抑えると、見沼田んぼの価値が見直され、1965年には宅地化を原則として認めない「見沼三原則」が制定されました。1970年頃から減反政策が始まると、見沼田んぼも水田から畑地への転換が始まります。その後、農業環境の変化や都市化によって後継者が不足し、耕作放棄地が増えるなどの問題が起こるようになりました。しかし、1995年に「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」が策定されるなど、首都近郊に残された大規模緑地空間として保全する機運が高まりをみせます。また、市内の若手生産者が主体となるJA青年部が2014年に新たに設立されるなど、21世紀における都市型農業の未来を意欲的に模索する生産者が増えており、都市部の緑地保全、食育、食料供給など、都市近郊ならではの多様な農業活動に取り組んでいます。 農業を志す40歳代までの青年農業者が集まって、2014年にJAさいたま青年部を設立しました。地域の将来の農業について考え、次代を担う農業組織のリーダー育成を目的として研修会やイベント参加などの活動を行っています。歴史ある貴重な優良農地を活かして、都市近郊型農業の可能性を追求していきます。水田から宅地や畑地への変換東京湾利根川利根大堰荒川芝川草加岩槻羽生加須上尾浦和大宮与野川口鴻巣熊谷行田見沼代用水見沼田んぼ見沼代用水の経路西区高崎線埼京線武蔵野線宇都宮線桜区南区緑区浦和区大宮区北区見沼区岩槻区東武野田線川越線中央区中央区現在の見沼田んぼ見沼田んぼと見沼代用水の完成水田から宅地や畑地への変換JAさいたま青年部

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