AGRIFUTURE_Vol.46
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江戸時代江戸時代から現在までさいたま市の農業を支え続ける江戸幕府の樹立により、後に100万人都市へと成長する「江戸」が、さいたま市域から徒歩半日余りの距離に誕生します。これにより同市域は、巨大な消費地を支える供給地としての役割を与えられることになります。「利根川東遷」をはじめ江戸幕府が関東地域の整備を進める過程で、さいたま市域には「見沼田んぼ」と「見沼代用水」が生まれました。これらは昔の遺構ではなく、現在も貴重な財産として、さいたま市の農業と人々の生活を支えています――。江戸幕府を開いた徳川家康は、江戸近郊である関東平野の更なる発展を目指して「利根川東遷」を行いました。江戸湾(現東京湾)に注いでいた利根川を、房総半島の銚子へと流れを変える大治水事業です。この時並行して行われたのが「荒川の瀬替え・荒川の西遷」です。現在より東を流れ利根川に合流していた荒川の川筋を変更し、利根川から切り離し入間川筋に合流するように瀬替えしたのです。この一大事業により、江戸や河川周辺の水害が抑制され、江戸を中心とする水運網の整備が進みました。また埼玉県東部をはじめ、低湿地帯だった場所で新田開発が行われるようになります。江戸時代初期のさいたま市域には見沼と呼ばれる広大な沼地が存在していました。見沼の誕生は縄文時代にさかのぼります。当時、温暖化によりさいたま市域は3分の2が海面に沈んでいました。その後、現在に似た気候状況になり海が後退する過程で見沼が生まれたのです。江戸幕府による利根川東遷は数多くのメリットを関東平野にもたらしましたが、一方で旧流域の農業用水が不足するというデメリットも起こりました。幕府はこの問題を解消するために水源から離れた各地域に溜池を計画します。さいたま市域では見沼が工事対象となりました。見沼の南側で最も両岸の幅が短くなっているさいたま市の附島と川口市の木曽呂の間に、長さ八丁(870メートル)の堤が築かれ、面積1200ヘクタールもの「見沼溜井」が誕生しました。江戸時代初期のさいたま市域には見沼と呼ばれる広大な沼地が存在していました。見沼の誕生は縄文時代にさかのぼります。当時、温暖化によりさいたま市域は3分の2が海面に沈んでいました。その後、現在に似た気候状況になり海が後退する過程で見沼が生まれたのです。江戸幕府による利根川東遷は数多くのメリットを関東平野にもたらしましたが、一方で旧流域の農業用水が不足するというデメリットも起こりました。幕府はこの問題を解消するために水源から離れた各地域に溜池を計画します。さいたま市域では見沼が工事対象となりました。見沼の南側で最も両岸の幅が短くなっているさいたま市の附島と川口市の木曽呂の間に、長さ八丁(870メートル)の堤が築かれ、面積1200ヘクタールもの「見沼溜井」が誕生しました。徳川家康の利根川東遷見沼溜井の干拓の決定/見沼田んぼと見沼代用水の完成水不足を補う見沼溜井の誕生見沼溜井の工事沼地八丁堤が作られる前中落悪水路見沼溜井八丁堤が作られた後八丁堤太平洋渡良瀬川鬼怒川小貝川東京湾荒川銚子旧河川旧河川銚子太平洋荒川渡良瀬川鬼怒川小貝川東京湾新河川見沼利根川利根川見沼溜井は下流の村には水源として大いに歓迎されましたが、一方で上流の村に水害をもたらす根源ともなりました。また、時代が進むにつれて見沼溜井の近郊で新田開発が増え、溜井だけでは安定した水の確保が難しくなりました。江戸時代中期に溜井廃止を懇願する声が八代将軍・徳川吉宗の元に届くと、年貢増収による財政の安定化と慢性的な水不足の解消を目的に、見沼溜井を干拓し新田開発を行う決定が下されます。さらに、この工事と同時に新たな水源を整備するため、大規模な農業用水の開削が計画されました。見沼徳川家康の利根川東遷水不足を補う見沼溜井の誕生見沼溜井の干拓の決定

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