AGRIFUTURE Vol.68
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やる気のある若手農業者の存在が常に私の心の支えであり農業に邁進する原動力なんです農業のホント ホンネ ホンキWe reveal the beauty of agriculture from the perspective of farmers, their wonderful produce and the history of regional agriculture. 小田原市は昔からみかん栽培が盛んで、親父もみかんを主軸に農業を営んでいました。しかし、全国的に史上最高の収量が見込まれた昭和47年、全国の各市場に大量のみかんが押し寄せて価格が大暴落したんです。その数年後には、国がみかんの生産調整の実施を決定しました。どうするか悩む親父に生産者仲間から「キウイフルーツという珍しい果樹があるから一緒にやってみないか?」と声が掛かったそうです。親父は仲間達と協力し合い、始めて目にした海外原産の果物栽培を軌道に乗せ、栽培面積も増やしていったのですが、九州や四国のみかん産地も同じようにキウイフルーツを始めるようになり、平成元年の頃には生産過剰となって再び値崩れに遭ったんです。当時の親父はすごく気落ちしていましたね…。それでも家族を養っていかないといけないので、キウイフルーツ栽培で使用していた針金の棚を活用できる梨やブドウを手掛けるなど、多品目を生産して市場出荷型から直売型の農業経営に切り替えて頑張っていました。 ただ、生活者と距離の近い都市近郊の農業といえども、自分で売るのは簡単ではありません。特に果樹は一年一作です。例えば、ぶどうを3000房作ると約1か月で売り切るためには、毎日100房ずつ買ってもらわないといけないわけです。それに、私が就農してから周囲の農家さんが高齢を理由に離農され、畑を我が家に預けるケースが増えてきたんです。耕地面積の増加に比例して収量も増え、個人販売はとてもじゃないが厳しいと私は判断しました。売れずに腐らせるのは、自分の1年間の労働力を捨てることになりますからね。キウイフルーツやみかんを増やしてJAに出荷できる体制に移行し、直売の割合を抑える経営に変えています。 我が家は分かっているだけでも10代、300年以上続いているんです。その家の長男に生まれた私は、農業を継ぐつもりで東京農業大学へ進みました。しかし、すぐに家に入るのは嫌だったので、果樹栽培の勉強をするために山形県の「神町りんご研究所」でお世話になることにしました。ここで知り合った学友や先輩とは今でも交流があります。毎年3月には研究所にみんなで集まり、りんごやラフランスの剪定をして、夜は親睦会で交友を深めています。農業を始めた頃は、彼らとの絆が本当に救いでしたね。小田原市には横浜や東京で勤める兼業農家も多いし、跡取り息子に対して「就職しろ」という人もおり、若い就農者が少なかったんです。そんな中、年齢も近い学友が全国各地で頑張っている姿は励みになりました。また、研究所の先生に教わった「学んだことを生かして、地域のリーダーとなり時代の先駆者になりなさい」という言葉を、先輩方が体現しているのを見ては自分もそうありたいと努力してきたわけです。 現在では、地域農業のいくつも役職を勤めており、新規就農の希望者と面談するなど、農業に携わる人が増えるような活動にも従事しています。農業を志す若者は以前に比べると増えているように感じますね。有機栽培や無農薬など、こだわりのある人が目立ちます。私はやる気のある若者と酒を飲むのが好きなんですよ。農業でこれから「生きていくぞ」「子育てしていくぞ」という覚悟を応援したくなりますし、自分も改めて背筋が伸びるような思いになるんです。ただ、新規就農者よりもリタイヤする人の方が多いのが現状です。なんとか、農家の息子さんやお孫さんが戻ってこないかなと期待しています。農業はドカンと儲かる商売ではないですけど、コツコツやれば食べる物も自分で作れるし、自分で経営できるし、こんなに面白い仕事はないと思います。時代と共に変わる経営心の支えとなった仲間と言葉興津智昭さん(43歳)神奈川県小田原市果樹生産者P.05

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