AGRIFUTURE Vol.59
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Tomisato 水はけの良い北総台地に位置する富里市は、江戸時代までは、台地が削られてできた「谷津」と呼ばれる低地以外は、水の確保が容易ではなく農地に向かない土地でした。その代り、平安時代以前から台地上の平坦な地形を生かして、馬を育成する牧が営まれており、江戸時代には徳川幕府直轄の牧場が置かれ、運送や軍事、農事に不可欠となる馬が数多く育てられていました。関東屈指の「牧」だった富里SuehironoujouHisaya Iwasakiかつて、富里には日本農業の模範となる広大で先進的な農場がありました。ここで生まれた農業・畜産技術は、現在の富里市はもちろん、我が国の農業の発展に大いに影響を与えました。この農場を興したのは、財閥を率い数々の経済事業で成功を収める一方、自然を愛し、農業に日本の未来を託した一人の実業家でした。 明治時代になると政府は士族を救済する目的で、富里の牧場を開墾地として利用することにします。しかし、開墾は困難を極め士族の多くが富里を去りました。この状況を憂いた明治政府の重臣・大久保利通は、富里を視察し「ここが適地である」と日本初となる「牧羊場」を開設。羊毛の生産を目指しますが、米国から招いた指導員が牧場の官舎で賊に襲われ重傷を負い帰国してしまうなど、計画は思うように進みませんでした。HisayaIwasakiToshimichi OkuboPilot Farm 1919年に三菱の社長を退いた久彌は、岩手県の小岩井農場の経営と共に「末廣農場」の運営に精力的に乗り出します。経営は東山農事という会社に任せ、自らは事業運営と技術面に力を注ぎました。末廣農場長には「採算は度外視してよい。畜産界の改良進歩のため模範的な実験農場を作ってもらいたい」と言葉をかけています。末廣農場では養鶏や養豚をはじめ、最新の設備と機械を導入した先進的な農法が実践され、同時に数多くの農事研究が行われました。土地利用が二転三転した明治初期農牧の未来を作る末広がりの農場 再び国の払い下げ対象となった土地を購入したのは、三菱財閥の2代目総帥・岩崎彌之助(初代・岩崎弥太郎の弟)でした。約340町歩という広大な土地を、岩崎家では当初から農業と畜産に利用する予定で、後に3代目総帥となる岩崎久彌(初代・岩崎弥太郎の長男)に計画は一任されました。岩崎家の土地は扇を開いたような独特の形をしており地元の人々から「末廣の野原」と呼ばれるようになります。久彌は先ずは植林事業を20年間行いました。落ち葉が堆肥となり農牧を行えるようになった1912年から農場事業を本格的に始動。先進的な西洋式の施設と技術を導入した「末廣農場」を作ります。The Future Of Agriculture.国や地域の発展に貢献する実験農場を目指してP.11

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