AGRIFUTURE_Vol.47
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陸漆捌伍ある戦いで3000名の北朝軍に追い込まれた1000名の菊池軍は、竹竿の先に短刀を縛り付けた槍を手に反撃に出ます。当時は少人数同士による馬上からの薙刀や弓矢、野太刀での闘いが主流でした。即席の武器を手に集団で攻め込む菊池軍に混乱した北朝軍は敗走。この戦いで用いられた武器は「菊池槍」と呼ばれ、その後の合戦方法に大きな影響を与え、菊池一族も地元の刀鍛冶に1000本の菊池槍を作らせたと伝わっています。この戦いの顛末は勇気と創意工夫で多勢に打ち勝つ例として、「菊池千本槍」の名で武家の美学の一つとして語り継がれることになります。小よく大を制す中世に栄華を誇った菊池一族は守山城(菊池城)を本城と定め、その周囲に本城を防衛するための城を20以上も築きました。これらの城は江戸時代に編纂された「菊池風土記」の中で「菊池十八城」と紹介され、現在までその名が使用されています。外城の一つ「増永城」を守ったのは菊池一族の西郷氏です。この末裔が鹿児島に赴き明治維新の立役者・西郷隆盛を産むことになります。増永城跡には徳富蘇峰の筆による「西郷南洲先生祖先発祥の地碑」が立てられています。明治維新の三傑西郷隆盛は菊池一族の末裔南北朝時代も中盤に入り全国的に北朝が優勢となる中、九州だけは例外的に南朝が優勢を保っていました。その中心で差配を振るったのが菊池家15代・武光です。後醍醐天皇から征西将軍に任じられた懐良親王に仕え九州各地を転戦。「関ヶ原の戦い」や「川中島の戦い」と並んで日本三大合戦の一つに挙げられる「筑後川の戦い」で勝利するなど、一時は九州全土を支配下に治め、九州勢約7万の軍勢を率いて京都へ攻め上る勢いを誇りました。しかし、時流には抗しがたく、九州も徐々に北朝が優位となり、武光が死去すると九州の南朝は勢いを失いました。九州統一を成し遂げた菊池地域の一豪族から九州を席巻する大大名に成長した菊池一族の原動力は一族郎党の団結力でした。13代・武重が一族結束を目的に定めた三カ条「寄合衆内談の事」には、「一族の方針は寄合衆と呼ばれる有力者と合議して決定し、その決定には当主といえども従うこと」といった内容が記されており、武重以下の血判が押されています。今日でいう議会制民主主義の考え方であり、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と書かれた明治維新の「五箇条の御誓文」に影響を与えたと言われ、その精神は明治憲法や現在の憲法にも反映されています。また、菊池一族は下剋上が頻発した戦国時代にあって、菊池の文化と教育を高めるため孔子堂を建て学問の普及に取り組み、現在に続く菊池の文武両道の基礎を作りました。菊池一族の勢力は戦国時代に入り衰えましたが、菊池一族が残した考え方や精神は今も菊池地方はもとより、日本中に息づいています。中世に議会制民主主義の精神を定めた菊池家憲九州屈指の名門・菊池一族。熊本県菊池市を拠点に中世・南北朝時代に頭角を現し、一時は九州一円を治めるまでに勢力を伸ばしました。菊池一族の躍進を支えたのは、菊池の水と大地が育む豊かな食料、そして、菊池一族独自の「団結する精神」でした。菊池槍菊池武光西郷南洲先生祖先発祥の地碑「菊池千本槍」十五代・武光

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