AGRIFUTURE_Vol.47
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弐参肆壱阿蘇外輪山の渓流を集めて有明海まで注ぐ菊池川をはじめ、迫間川や合志川などの豊富な水源を持つ菊池地方では、肥沃な土壌を持つ菊池平野や台地を中心に古代から農業が興りました。その当時から人々が豊かな暮らしを営んでいたことは、この地に残る遺跡からも推察されます。現在の菊池市と合志市に分布し、5世紀頃に造られたとされる黒松古墳群は、この辺りを治めていた有力豪族の墓ではないかと考えられています。日本有数の名水を持つ豊穣の地九州有数の米どころとして知られるようになった菊池は、国防と九州統治のために大和朝廷が設置した地方政府機関・大宰府を支える役割を担うことになります。また、7世紀後半には「鞠智城(きくちじょう」が菊池平野を望む高台に築かれました。この城は、白村江の戦いで敗れた大和朝廷が中国・朝鮮からの侵攻に備えて西日本に築いた11の水城・山城の一つです。朝鮮半島からの亡命者が築城を指揮しており「朝鮮式山城」とも呼ばれます。九州の中心大宰府を支える菊池菊池川流域を地盤にする菊池一族は平安後期に台頭します。菊池家の祖先は名族・藤原北家の出身で大宰府の実質的な長官だった藤原隆家の孫が菊池に下向して土着したとも、藤原隆家の九州統治に協力した古代鞠智氏の末裔で藤原姓を名乗ることを許された藤原政則とも言われています。菊池一族は菊池平野の豊かな食料と鞠智城という要衝を足掛かりに力をつけていき、肥後国(熊本県)有数の武士団として源平の合戦や承久の乱、2度の元寇などで活躍します。菊池一族の菊池一族が歴史上でもっとも輝きを放ったのは南北朝時代です。鎌倉幕府の打倒を後醍醐天皇が全国に呼び掛けた際、菊池一族は近隣の阿蘇氏らを誘い幕府の役所(鎮西探題)を襲撃しました。しかし、少弐氏や大友氏の裏切りに遭い菊池家12代・武時は壮絶な討ち死にを遂げます。討幕が達成され建武の新政が発足すると、武時の活躍は楠木正成から称賛され嫡子・武重は肥後守に任官されて一国の支配を任されます。同時に武重の弟らも、対馬守、肥前守に任命され、これ以後、九州南朝勢力の中心として菊池一族は働くことになります。楠木正成に称賛された西国の忠臣黒松古墳群鞠智城菊池武時の像勃興一族の和を持って国を治め、文教の地・菊池の基礎を作った文武両道の誉れ高き忠臣肥後国菊池郡菊池川

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