AGRIFUTURE_Vol.45
13/16

 「青森ねぶた」や「弘前ねぷた」が全国的に有名ですが、津軽地方や下北半島北部の数多くの市町村で祭りが執り行われています。「ねぷた」と「ねぶた」の呼び名の違いが各祭りで固定化されたのは近年で、以前はその人の訛りで「ねぷた」や「ねぶた」と発音していたようです。「ねぷた祭り」は夏の農作業の睡魔を払う全国的な行事だった「眠り流し」が元で、「眠た」が訛ったといわれます。この説は明治から昭和初期の民俗学者・柳田國男が唱えたもので、現在では最も有力な説として知られています。その一方で、「ねぷた」はアイヌ語が由来だとする説もあります。アイヌ語には清音と濁音に区別がなく「ねぷた」と「ねぶた」は同意で、アイヌ語で「何だ」という意味に相当します。 また、「眠り流し」説以前は、平安時代に蝦夷を攻略した坂上田村麻呂に由来するという説が地元では浸透していたそうです。田村麻呂は人徳で東北を治めようと考え、地元民をできるだけ殺さないように指示しました。ねぷた祭りの掛け声である「ラッセラー」は田村麻呂軍が発した「羅っせ・拉っせ(殺すな、生け捕りにしろ)」が変化したというのです。田村麻呂に従った津軽や下北半島の人々が、鎌倉時代以降の支配者(中央の武家政権)に対する反骨心から、「自分達の主人はあの田村麻呂だ(朝廷側だ)」とひそかに主張する特異な祭典がルーツと考えていたようです。確かに、「ねぷた祭り」には珍しい点が2つ挙げられます。一つは寺社を主催とせず、地域自治体が運営母体となる点。もう一つは跳人(はねと)と呼ばれる踊り手が狩猟民族のように跳ね踊る姿です。これらは国内の一般的な農民祭とは一線を画しており、「ねぷた祭り」の不思議であり、大きな魅力にもなっています。じょっぱり精神で跳ね踊る独創性に富んだ「ねぷた」 青森県に西洋林檎が入ったのは1875(明治8)年で、栽培の先駆者となったのは廃藩置県で職を失った士族です。「青森県りんごの始祖」と呼ばれた元弘前藩士・菊池楯衛をはじめ、各地域で栽培に熱意を傾ける者が現れ、じょっぱり精神で徐々に栽培技術を固めていきました。1890(明治23)年の内国勧業博覧会で青森りんごが有功二等賞を受賞すると、県内には多くの果樹園が誕生しました。しかし、栽培が軌道に乗り始めた明治30年代に大規模な病害・害虫が発生。栽培は一気に下火になってしまいました。それでも、じょっぱり達は諦めませんでした。栽培技術の改良に努め「りんごの神様」と呼ばれた外崎嘉七をはじめ、青森県農業試験場害虫研究所の設立のために1ヘクタールもの土地を提供した安田元吉、シンクイ虫克服のための「袋掛け」を広めた田中英や大高弘など、何人もの生産者が逆境を乗り越えるために力を尽くしました。 その後、りんごの商品価値が確立し始め、1910年には作付面積約3,800ヘクタールで全国1位となっています。1940(昭和15)年には、栽培機械導入のパイオニアでもある竹浪集造が、りんごの名前をそれまで使っていた「苹果」から「林檎」にすべしと提唱。後に現在の「林檎」に改称され現在に至っています。昭和中期以降も多くの生産者によって品種改良や販路開拓が重ねられ、りんご産業は青森県の一大産業へと成長していったのです。逆境に負けないじょっぱりが見事に咲かせた「りんご産業」 世界250種りんごを栽培する品種見本園を中心に、りんごの歴史や品種を学べる資料室や見学可能な加工場、宿泊施設、温泉などが併設されており、りんごの収穫期にはもぎ体験もできます。施設内には1896(明治9)年に板柳町でりんご生産が始まった当初から、産地を見続けてきた樹齢125年を数えるりんごの樹が移植されています。青森県北津軽郡板柳町大字福野田字本泉34-6板柳町ふるさとセンター平川市にある高さ11メートル、幅9.2メートルの大きさを誇る世界一の扇ねぷた。1998年に「どこにもないねぷたを作ろう」という想いから製作されました。毎年夏に行われる「平川ねぷた」では行列の最後尾を務め、祭りを大いに盛り上げます。平川市の世界一の扇ねぷた

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

page 13

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です